奈良三郷町・斑鳩町 藤井ピアノ教室 講師紹介

●バイタリティーのある母に育てられる  

大阪で生まれる。ピアノを習っている兄について、3歳から なんとなく始める。色音符や絵合わせ、お歌をうたったり、リズムに合わせて体を動かしたり…毎回兄と一緒に行くことが楽しかったことを覚えている。おばあちゃんピアノ先生で、レッスン室には「絵本」がいっぱいあって、いつも兄のレッスンを待つあいだ読んでいた。なかでも一番のお気に入りの本になったのは「こぶとりじいさん」 この絵本に出てくる「おじいさんのいろんな顔」が好きで毎回それが楽しみだった。おばあちゃん先生は、そんな私を見て「こぶとりじいさん」に音楽をつけて読んでくれるようになった。とっても優しい先生だった。やがて幼稚園に入園。毎日泣きながらバスに乗っていた。お遊戯の時間に、ブルグミュラーの「天使の声」のピアノに合わせてヒラヒラしながらグルグル回る、その時間が大好きだった。担任の津田久美子先生のピアノを食い付くように眺め、うっとり。私もこの曲を弾きたい!と思ってた。 父は銀行員。母はバイタリティーのある女性で、和文英文のタイプを習い自ら仕事を探し、速記の原稿を打ち出したり、オープンデッキから流れる英語をタイプで打ったり、毎日忙しそうだった。「○○時までに仕上げてください」といろんなおじさんが朝晩関係なく訪ねて来た。 我が家には何故か、昔から外国のファッション雑誌がいつもあって、母はその斬新な服に興味を持ち、見よう見まねでその服を作り始めた。その服を着てタイプの仕事に出かけ、そこで周りから是非同じものを作って欲しいと頼まれ、それがどんどん広まり我が家はその雑誌と共に、お客様の注文の洋服生地で山積みになった。3年待ちでも皆喜んで切抜きのイラスト写真と洋服生地を置いて帰った。やがてフランス刺繍にも出会いまもなく師範免状を取り、40年生徒と共に作品を作り続けた。発想力が素晴らしく、自分で自分の人生を切り開き、やりたい事を貫き通すパワーある母を大尊敬し憧れていた。私もこんな風になりたい!

 

●負けず嫌いの少女時代

当時の父は忙しく、深夜に帰宅することが多かった。母もいくつもの仕事のため、ほとんど家にいなくて兄と共に鍵っ子になる。母の影響もあって、小さい時から着せ替え人形の服を作ったり手編みのマフラーやミトンの手袋を作っていた。社宅の階段の踊り場でお友達と人形ごっこをしたり、なわとびや鉄棒で遊んでいた。帰りの遅い母を待ちながら社宅の公園で暗くなるまで鉄棒でくるくる回っていた。ケンパやおはじきも大好きで、一人遊びが好きだった。母はそんな私を心配して小2の時、兄と一緒に習字を習わせた。毎日夕方になると、隣、上の階、下の階から聞こえてくるピアノの練習。みんなここぞとばかりに窓を開けて弾いている。嫌でも聞こえてくるいろんな曲。だんだん闘争心にかられていく。「もっと上手になりたい!」当時のおばあちゃん先生は大好きだったが、母に「怖い先生に習わせて!」とお願いする。「負けず嫌い」を知っていたのか、母はすぐ次の先生を探してくれた。

 

●いばらの入り口

小学2年生の時に、藤岡先生という大阪音大卒の声楽の先生に習い始める。月1回ソルフェージュの日があって4・5人の生徒が集まった。今まで教えてもらったことがないことばかりで、キョロキョロ。私はこの日が嫌いだった。ピアノレッスンもとても怖くて「トンプソン」や「ラジリティー」という楽譜を使った。英語ばっかり。音符も小さいし。今まで「バイエル」しか弾いてこなかった私は、どんどんおそろしい物に出会っていく感じがして決して楽しくなかった。

 

●憧れの隣のお姉さん

当時、隣にものすごくピアノの上手な大学生のお姉さんがいた。ショパンやリストだったのだろう。とってもうっとりする音楽が毎日聞こえてくる。憧れだった。そんなお姉さんに図々しくも宿題のわからないところをよく聞きに行き、そして弾いてくれた。やがてその怖かった先生もだんだん認めてくれたのか4年生の時から発表会ではトリを任された。一目置いてくれたことが嬉しくて俄然ヤル気が出てきた。「ショパンの華麗なる大円舞曲」を4年生で「幻想即興曲」を5年生で6年生は「ロンドカプリチオーソ」を弾かせてもらえた。不安で始まったピアノもどんどん天狗の鼻になっていった。

 

●まさかの対人恐怖症

5年生の頃、ピアノではどんどん弾けることが嬉しくて、合唱の伴奏や入学式・卒業式では先生の代わりに弾いていた。人前で弾くことが大好きだった。怖いレッスンだったがたくさん誉めてもらえるようになっていた。反面、学校では引っ込み思案で対人恐怖症の一面もあった。友達とは走り回って遊ぶけど、授業となるとまるっきり借りてきた猫のようにおとなしかった。授業中に手をあげることが出来ない。当たったらどうしよう。当たっても答えはわかってるから怖くないと自分に言いきかせ、ある日勇気をふりしぼって右手をあげた。鉛のように重い空気を突き抜けた先は、なんて軽いんだろう。スーっと目の前が開けた感覚になった。嘘のように簡単な話だった。結局は当たらずホッとしたのだが。

 

●いろんな別れそして感動の再会

毎日学校も底抜けに楽しくなり、ピアノも大好きだったけど習字にもはまっていて、ある日、試験に提出するために何枚も何枚も書いて「どれがいい?」と父、母にいくつか選んでもらった。黙々と書いてる私に父が「習字とピアノどっちが好きか?」と聞いた。ピアノも好きだし習字も師範手前まで資格を取ったし「どっちかっ?」て聞かれても困った。「どっちか」と言われたら、練習しなくていいし断然「楽チン習字!」と思った。そして6年生の夏休み、家を建てることになり奈良の田舎に引っ越して来た。カルチャーショックだった。 周りの子はほっぺが真っ赤。 山があって、電車は単線、車で走っても走っても山と田んぼ・・・ なんでこんな田舎に来たんやろう・・・と思った。大阪で毎日楽しく暗くなるまで遊んでいた友達や、大好きな習字、そして厳しいけど認めてくれるピアノの先生とのお別れは、かなりショックだった。大阪から越してきた私は、ストレートの長い髪、背も高く美少女風?周りはそんな私に興味があったようで、よく髪を引っ張られたり女子からは意地悪をされて殻に閉じこもるようになる。担任の先生はそれを心配して、よく声をかけてくれたり先生との交換日記をしてくれた。6年の修学旅行、旅館の駐車場にバスが止まった時、何気に横を見たら隣のバスで必死に手を振る大阪時代の同級生。速攻涙がドバーッ!奇跡的な感動の再会を果たす。友達に会いたいという気持ちがそうさせたのかも知れない。その晩担任の先生の計らいで「少しの時間やったら隣の旅館に行ってもいいよ」って。嬉しかったー。「内緒やで!」って言って優しく笑った男先生の顔は今でも忘れない。友達もあまり出来ないうちの修学旅行は楽しい思い出はなかったけど、まちがいなくこの先生のお陰で残す小学校生活は明るくなった。

 

●涙の桜並木

大阪のピアノの先生から紹介してもらう奈良の先生。武庫川音大卒の寺本先生は「とってもとっても怖くて厳しい先生だから、しっかりおっしゃることを聞いて頑張るのよ!」と。母子共に緊張しながらその言葉を受け止めた。ごあいさつで初めて家にお伺いした時、生徒さんのレッスンを見学することになった。みんな上手だった。聞いたことがないくらいに。お山の頂点で天狗になっていた鼻がしおたれそうになった。西日本1位や全国上位の人達のレッスン。みんな上手なのに、みんな泣いていて威圧的な空気でレッスン室は重く暗かった。案の定私は「死ぬほど弾け」と言われクラブも禁止。ひたすら練習。テキストは4冊。ハノンとスケール・アルペジオ・クロマテック・3度6度10度全調、テンポ3種類は必須。つまり本一冊。真面目にやったら一時間半以上はかかる。その他チェルニー40番は毎回4・5曲。何クールもやり全曲宿題の時もあった。「全部は無理やぁ」と心の中でつぶやきながら、やらないと怒鳴られると思い悲痛だった。生駒駅から先生の家まである桜並木の坂で終わった生徒とすれ違うその子の目から涙が。そして私も帰り道、次の生徒と「今日もや」とハンカチで顔をおおいながら交わす言葉。涙を見ない日はなかった。

 

●いばらの道は暗黒へ 

あの頃の私は負けず嫌いで、頑張れば頑張るほど上手になって「誉められて」本当に弾くことが楽しかった。でも、もう以前の天狗の鼻はあとかたもなかった。「あんたらは」と名前も呼んでもらえない出来ない子グループの一員。どんどん自信がなくなっていった。「私のコピーなんだから」とよく言われお手本通り弾くことで必死だった。レッスンを録音しなさいと。それを家で聞き練習した。「きっちり弾く」「楽譜に書いてあることを忠実に守る」お陰でそんな力は養われた。楽譜を読むことから先読みの力も出て来て、計画を立てて練習するのが上手になった。何よりもコツコツ努力する忍耐力が備わった事は感謝している。

 

●女の波 

公立高校へ行ったらピアノを弾く時間が減るからと言われ、進学は女子高で樟蔭高等学校へ進むことになった。びっくりしたのは小阪駅から学校までの女の波。幼稚園から大学までの一環校なのでどこを見渡しても女女女。「こんなところはいややなー」正直吐きそうだった。団結している女子の輪にまたしてもなかなか入れなかった。やはり先生は「クラブも禁止、ピアノを弾きなさい」と言い続けた。全然おもしろくなかった。

 

●受験 

「 あんたは、4年生の音大は無理!」と先生に言われ短大を目指すことになる。とにかく練習しかないと常日頃から言われ、毎日先生の言う通りの練習をコツコツしていた。両親は短大に抵抗があり大阪芸大の4年も受験する。結局、両大学共に合格するが、叔母が住んでいた池田に近い大阪音楽大学短期大学部へ入学することに決めた。叔母は喜んでくれてグランドピアノを買ってくれた。

 

● 編入 

自分は駄目なんだと思って短大に入ってみると自分のレベルが高いことがわかった。かなりショックだった。ある意味のカルチャーショックをここでも受ける。レッスンでも公開レッスンでも誉められ、今までの暗黒から少しずつ抜け出すことができた。周りが、あなたはここに居てはもったいないと言ってくれ4年生に編入を希望する。結局、大阪音大短期大学部を主席で卒業。専攻科を経て大阪音大学部の編入試験を受け合格する。

 

●卒演

大阪音大学部でも3位卒業で卒演コンサートに出演。後、卒演曲の「ショパン・バラード4番」で奈良県新人演奏会やフレッシュコンサート・ファインアーツコンサートなど、いろんな舞台をこの曲で一年半ほど演奏させてもらえる。卒業試験の時から時々レッスンを後の学長になられた永井譲先生に見て頂いていた。ある日先生のお宅の古いヤマハのグランドピアノで弾かせてもらった時「もう廃棄しようかと思っていたのに、こんな綺麗な音が出るなら処分せずにまだ使おう」とおっしゃってくださった。とっても嬉しかった。その卒演を永井先生は録音してくださっていた。これはありえない事だった。「客席で聴いてたよ。とってもいい演奏だったよ」と演奏が終わり全ての緊張と高まりを沈めるため、近くの喫茶店でホッと心の打ち上げをしてる私を探し出して、その録音テープをくださった。涙が出た。感謝と感激でいっぱいになった。受験まで誉めてもらった事など一度もなく、レッスンで「なんであんたは」という言葉に反射的に「すみません」と答える自分がいたあの頃を考えると、この大学の5年間の解放的で自由で、そしてレッスンをアドバイスとして受け取れるようになっていた。ねじれてゆがんだ心も一気にほどける気持ちになった。あー、ピアノを弾いててよかったぁ。

 

●レッスン開始 

大学在学中からピアノを教え始める。初めは母の教えていた刺繍の生徒の娘さんから始まり、どんどん口コミで広がり遠くから生徒が来てくれるようになった。自宅・出張と分刻みで動く、超過密スケジュールで教えていた。教えることで多くを学び自分の演奏にも役立った。生徒たちもどんどん成果が上がり教えることで幸せを感じるようになっていった。生徒は25名ほどになる。

 

●再び暗黒!いばらの道も道は道 

だんだん教えることがおもしろくなり自分の舞台も減っていた。28歳の時にシフォニーホルで関西フィルハーモニーとの共演のチャンスをもらう。寺本先生のレッスンを受けることになる。先生は「私の顔に泥を塗るような演奏はしないでちょうだい!」「うまく弾けなかったら承知しない」と常に言われた。レッスンでうまく弾けないと親に三・四時間の説教をすることもあった。舞台に出る恐怖が日々増し、おなじ舞台で共演する友達と、これが終わるまでやるしかない、と。いばらの道も進むしかなかった。二人は黙々とやり続けたが,暗すぎた。当日なんとか無事に終えた二人に罵倒をあびせた先生。「いやーよかったよ」と嘘でも労ってくれる指揮者の亡、小松一彦先生。小松先生はとても厳しかったけど、何度も何時間も熱意を持ってレッスンをしてくださった。いつもどん底を味わいながらも、暖かい手を差し伸べてくれる男の先生達がいた。本当に救われた。その日はあまりのショックで帰宅する気になれず、友達と急遽ビジネスホテルで夜を明かした。そして、決心した。もう、卒業しよう。

 

●自信が復活する 

受験までこれが普通だと信じてやってきたことが、大学に入って初めて自分の世間の狭さを知った。本当に驚きばかりだったが、いろんな人に出会い、いろんな刺激的なレッスンを受けて、目の前がスーッと明るく開けた。本当は私、ピアノが上手なんじゃないの?そう思っていいんじゃないの?今までそんなことを考えるなんてありえなかったけど、心が本気で喜んでいいんじゃないの?そう思える自分が、本当に嬉しくてたまらなかった。卒業しても、そんな気持ちを持って今まで出来なかった事をいっぱいしてみたいと思うようになっていった。一度自信と希望を知った私は、暗黒への捉え方が変わっていた。そして、私の「やりたいこと」「理想とするもの」が徐々にゆるぎないものへとなっていった。

 

●反面教師 

自分の受けてきたレッスンは、誉めてもらえなかったし否定されることばかりだった。先生のお気に入りの演奏を目指すレッスン・・・個性はいらなかった。自分の考えは持たない方が身のためだと思っていた。自分が教えるとしたら全てを反対にしてみようと思った。まず、どんな小さな事でも誉めてあげよう。認めてあげよう。押し付けではなく、こう弾きたい!こうなりたい!と自分の考えを持てるように教えよう。どこが良くてどこが足りないのか、自分の演奏を自分で判断できるように考える力を育てよう。そして自信を持てる!アドバイスと捉えてもらえるレッスンをしよう。そして、会話のキャッチボールができて心が嬉しく思えるレッスンをしよう。弾きたくて仕方ない!嬉しくてたまらない!楽しくてたまらない!そう思えることが上手になっていける秘訣だと思うから、そんなレッスンを目指そう。

 

●教えることの喜び 

当時のピアノ教室には、遠慮がちな自分の演奏に自信のない生徒も通っていた。意外と自信ある!子より、自信のない子の方が良く弾けた。でも、自信ある生徒の方が演奏が生々していた。「自信を持つこと!自分で自分を誉めること!あふれる嬉しさ」が人を感動させ、大きくアピールできる一番大切なことだと実感していた。「勘違い人間大いにあり!芸術は個性の世界なんだから、自分が好き!自分のファンになる!それが絶対大切だよ」と、私と同じ路線に生徒を向かわせてはいけないと必死に応援した。そのうち男の子で、自由奔放に弾く子がいた。考える力を養いながらレッスンしていた。嬉しそうに弾くようになり、その姿が素晴らしいなと思った。私の目指す自由で解放された演奏にどんどんなっていった。彼が5年生の時に、彼自ら希望してコンクールに初チャレンジ。予選通過・本選通過そしてファイナルで準優勝を頂けた。努力の先にはプレゼントがあるよ!そんなことを日々言っていたので受賞の瞬間「プレゼントあったやん!」と喜び合った。高3の秋まで教室に通ってくれた。夏のピティナが数え切れないコンクール挑戦の集大成だった。15年の長い月日。奨励賞に終わってしまったその日、彼に「よかったよ!立派やったよ!」と労いの言葉に「残念やったけどやりきった達成感で悔いはありません。」とすがすがしく言う彼を見て涙が止まらなかった。やがて東大の理Ⅰに合格。2016年のグランミューズYカテゴリーでファイナル2位の快挙となる。 https://youtu.be/Kd0ongsr7_A この子を通してピアノを教えることの喜びを感じさせてもらえた。今でも小さい子が、楽しそう、嬉しそうに弾くのを見ると「いいなぁ」と尊敬してしまう。自分がそう育ったらどうなっていたかな・・・と。 生徒には、何を持っても 弾ける楽しさを教えたいと思っている。  今あらためて振り返って見て、いろんな苦しいことや悲しいこと、嬉しかったことや天にも昇るような気持ちになったこと。さまざまな経験をしてきたからこそ、今の自分がいて、ずっとピアノと共に満たされる毎日があるのだと思います。最後に、私に携わって下さった全ての先生方に感謝の気持ちでいっぱいです。少しでも引き上げてやろうという熱意をたくさん頂いたこと、そして頑張る気持ちを育てて頂けたことに言い尽くせない感謝の気持ちでいっぱいです。その過程があったからこそ、今の自分があるのだと思います。その傾けて頂いた情熱と心を、これから私が生徒さんたちに伝えていくことだと思います。

 

◆受賞実績◆

■ピティナコンペティション 第40回グランミューズ全国決勝大会Yカテゴリー第2位・グランミューズ部門入賞者コンサートに出演

■ブルクハルト国際音楽コンクール 第12回ファイナルピアノ部門審査員賞受賞

■アールンコンクール 第11回全国大会グランドファイナル・小学5年優秀賞・小学6年全国2位・中学生全国6位受賞

■奈良県高校独奏コンクール 第42回ピアノ部門グランプリ受賞・第43,44回銅賞受賞

■ヤマハヤングピアニストファイナル推薦演奏会 2001年5,6年の部最優秀賞・2008年5,6の部優秀賞・2010年中学生の部金賞・2012年高校生の部金賞受賞

■毎日こどもピアノコンクール 第5回本選高学年グランプリ部門優秀賞・第10回本大会5,6年の部最優秀賞・第11回本大会中学生の部優秀賞受賞

■大阪音楽大学推薦演奏会ファイナル 第42回ピアノ部門3,4年の部奨励賞・第54回5,6年の部銀賞受賞

■グレンツェンピアノコンクール 第2回全国大会3,4年の部優秀賞受賞

■全日本芸術コンクール 第6回関西大会中学1年奨励賞・中学2年優秀賞受賞

■ベーテンピアノコンクール 第4回1,2年の部奨励賞・5,6年の部優秀賞受賞 

■現在 

コーラスの伴奏・アンサンブルAMI・アンサンブル奏Wa・Duoファクラ として活動中 

日本音楽審査協会の審査員を務める 

全日本ピアノ指導者協会会員 

奈良芸術協会会員

 

奈良三郷町・斑鳩町 藤井久美子